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【ケルトの歴史】

負けっぱなし、百敗の民?


司馬遼太郎は、アイルランド人への考察の中で「アイルランド人は、客観的には百敗の民である」と書きました。
アイルランドに限らず、ケルト文化というのは、歴史的に常に負け続けの歴史でもありました。ローマやゲルマンが台頭してきてからは、過酷な自然環境の土地へと追いやられ、ヴァイキングやアングロ・サクソンにも侵攻され、近代に入ってからもアイルランドはイギリスの搾取に苦しみ、さらに新天地を目指して移民していった先の新大陸・アメリカでも差別を受け続けました。
しかし、司馬遼太郎は、続けてこうも記しています。
「アイルランド人は、客観的には百敗の民である。が、主観的には不敗だとおもっている」
どれだけ厳しい自然環境でも、侵略され征服されても、キリスト教が入ってきても、世界中に移民していっても、搾取や差別を受けても、彼らは「ケルト」の精神とアイデンティティーを失わず、敗者という意識を持つこともなく、持ち前の不屈さと前向きな力強さで、今日までのその文化を継承してきた人々なのです。


古代ケルトの発展

(紀元前1500~前200)
もともとケルト人は、青銅器時代に中央ヨーロッパに登場し、紀元前1200年頃~前500年にかけてハルシュタット文化を発展させたと考えられています。その時代の後期からは鉄器時代となり、紀元前500~200年にかけてラ・テーヌ文化へ発展すると、ケルト人たちは鉄製武器と馬車(戦車)を用いてヨーロッパ全土に広がっていきました。 当時のケルト人たちは、ギリシャ・ローマなどの文明社会と盛んな交易を行った外交、勇猛さを活かし傭兵として活躍した武力、そして、渦巻文様に代表される美しい装飾品を生み出していった美術と多方面で才覚を発揮し、隆盛を誇りました。

ローマ・ゲルマンの台頭

(紀元前200~西暦100)
紀元前1世紀ごろになるとゲルマン人が台頭し、次第にケルト人は西のフランスやスペインへと押しやられ、その後ローマによって征服されてしまいます。この時代のローマによるケルト人征服の記録がユリウス・カエサルによる「ガリア戦記」です。

島のケルト

(西暦100~500)
大陸のケルトは紀元前1世紀にほぼローマのよって支配されましたが、ブリテン諸島のケルトも1世紀頃にローマの支配を受け、さらに5世紀に入るとアングロ・サクソン人によって支配されます。しかし、気候条件が厳しかったアイルランドやスコットランド、西端のウェールズには支配が及ばず、ケルト文化が残存することになります。また、アングロ・サクソンの圧迫から逃れて海を渡った一部のケルト人はフランスのブルターニュ半島に落ち延び、今でもケルト文化圏のひとつとなっています。
なお、もともとブリテン諸島にいつ頃ケルト人が渡来したかははっきりしておらす、大陸と島のケルトに血縁関係が認められないと言われています。しかし、現在もなお文化的特徴や語派を共有し、それぞれの土地の人々が「ケルト」というアイデンティティーを共有していることは間違いありません。

ケルトの復興

19世紀末に、アイルランドの詩人W.B.イェイツらを中心として、ケルト文化の文芸復興運動が盛んになり、世界的なナショナリズムの台頭もあって再びケルト文化が注目されるようになります。細々とケルト語圏で文化を継承してきた人たちは、それを自分たちのアイデンティティーとして意識するようになり、ケルトは美術文学音楽などの分野をはじめとして現代に新たな形で蘇ったのです。 また19世紀半ばに起こった「じゃがいも飢饉」(アイルランドの主食だったじゃがいもの不作)を発端に、アイルランドやスコットランドから大量の移民がアメリカ大陸に移民し、その数を増やし続けました。今や、アメリカのアイリッシュ系移民は4000万人とも言われ、セント・パトリックス・デーやハロウィーンなどの文化も花開くことになりました。