(紀元前200~西暦100)
紀元前1世紀ごろになるとゲルマン人が台頭し、次第にケルト人は西のフランスやスペインへと押しやられ、その後ローマによって征服されてしまいます。この時代のローマによるケルト人征服の記録がユリウス・カエサルによる「ガリア戦記」です。
(西暦100~500)
大陸のケルトは紀元前1世紀にほぼローマのよって支配されましたが、ブリテン諸島のケルトも1世紀頃にローマの支配を受け、さらに5世紀に入るとアングロ・サクソン人によって支配されます。しかし、気候条件が厳しかったアイルランドやスコットランド、西端のウェールズには支配が及ばず、ケルト文化が残存することになります。また、アングロ・サクソンの圧迫から逃れて海を渡った一部のケルト人はフランスのブルターニュ半島に落ち延び、今でもケルト文化圏のひとつとなっています。
なお、もともとブリテン諸島にいつ頃ケルト人が渡来したかははっきりしておらす、大陸と島のケルトに血縁関係が認められないと言われています。しかし、現在もなお文化的特徴や語派を共有し、それぞれの土地の人々が「ケルト」というアイデンティティーを共有していることは間違いありません。
19世紀末に、アイルランドの詩人W.B.イェイツらを中心として、ケルト文化の文芸復興運動が盛んになり、世界的なナショナリズムの台頭もあって再びケルト文化が注目されるようになります。細々とケルト語圏で文化を継承してきた人たちは、それを自分たちのアイデンティティーとして意識するようになり、ケルトは美術や文学、音楽などの分野をはじめとして現代に新たな形で蘇ったのです。
また19世紀半ばに起こった「じゃがいも飢饉」(アイルランドの主食だったじゃがいもの不作)を発端に、アイルランドやスコットランドから大量の移民がアメリカ大陸に移民し、その数を増やし続けました。今や、アメリカのアイリッシュ系移民は4000万人とも言われ、セント・パトリックス・デーやハロウィーンなどの文化も花開くことになりました。