思い出アルバム [動画・エピソード]

~ありったけのストーリー BY KEIKO KAWASHIMA~ -かくも素晴らしき音楽家たち-


◆その8 沖縄の思い出(2020.9.11掲載)
◆その7 一度聴くとメロディを覚える天才デレク。(2020.9.04掲載)
◆その6 数々の冒険とゲストとの出会い ~ 東大寺にも。(2020.8.28掲載)
◆その5 パディ・モローニは19室も部屋を変わった!(2020.8.19掲載)
◆その4 元は皆、堅気の会社員だった!(2020.8.13掲載)
◆その3 奇跡の高島町と松江公演 ー第2回目の来日時。(2020.8.07掲載)
◆その2 お決まりのスピーチから始まる舞台(2020.7.28掲載)
◆その1 せっかち爺さんたち(2020.7.22掲載)

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◆ツアー・エピソード その8

(2020.9.11掲載)

8. 沖縄の思い出(1994年)


さて、前述の沖縄公演では地元のエイサー隊とも共演。チーフタンズもエイサーも、譜面がないし、共演はちっともうまくいかない。何小節目に、とか、サビからはいる、とかの決め事が通じない。一方だけ終わってしまったり、急にまた始まったり。
こりゃ無理だ、業を煮やしたパディは 「わかった、俺が手を挙げたら歩きながら太鼓を叩き入って来て、延々と繰り返す、再度手を振ったらジャーンと終わろう!」と原始的な解決方法に出た。さすがどんな演奏家ともやれるチーフタンズ!!

この沖縄ツアーでは沖縄の芸人、照屋林助さんと会合、沖縄音楽とケルト音楽の話で盛り上がった。アイルランド音楽大使の任命をうけた"チーフタンズ”とは”酋長"という意味で、片やテルリンさんは沖縄の"コザ王国の大統領”、音楽酋長どおしの出会いで、互いの国の歴史や文化にたくさんの共通のところをみて話が尽きなかったのでした。
このとき、チーフタンズは首里城に行ったり、めずらしく仲良く、観光しました。

マット・モロイ(フルート)はここ沖縄の海で念願の”ダイビング"を果たしました。彼はアイルランドの西ウェストポート州のメイヨーでアイリッシュパブを営み、暇な時には海に潜っているダイバー。かっこいいヨットも持っているそうな。沖縄で潜りたいということでダイビングの手配を地元のダイバーに依頼。「明日、公演がある大事なミュージシャンなので、くれぐれも怪我しないよう、世話してほしい」と頼んだところ、海から上がってきたマットが「まいったよ、海の中ぜ〜んぶ、ついてくるんだよ(笑)ひとりで自由に泳げなくてね」と。沖縄の人は親切です(笑)。

沖縄のメロディラインはアイリッシュの”シャーノス”と共通するところがあり、また、その歴史と音楽のあり方にもアイリッシュはみな特別の敬愛をいだき、親密さを感じます。アイルランドのリアム・オ・メンリィもアルタンも、最近ではWe Banjo3も、チーフタンズに続き、沖縄のシンガーと共演しています。




~その9へ続く~


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◆ツアー・エピソード その7

(2020.9.04掲載)

7. 一度聴くとメロディを覚える天才デレク。


ハープ奏者のデレク・ベルは天才でした。オーボエも吹き(ロンドン・フィルの首席オーボエ奏者からチーフタンズに移籍した!)、ピアノもとってもうまい。サウンドチェックのあとのだれもいないステージでよく、クラシックの壮大なコンサートのようにひとりで弾きまくってました。

1994年の秋のツアーでは初めて沖縄に敢行。地元の我如古よりこさんをゲストに迎えました。この時のリハーサルには驚かされた。リハーサル室は要らないということで、ホテルの狭い部屋に皆が集まった。我如古さんに沖縄の歌を2、3度歌ってもらった後、一旦全員解散。あれ、どうなるの、と思っていると、デレクがひとり、部屋に缶詰となる。おきまりの作業のようだ。
1時間後に全員呼ばれる。譜面ができた、さあ、合奏という具合。
これはその後のいろんなゲストを迎える時もいつも、デレクがメロディをその場で暗記し、アレンジするという手法なのです。「え、歌を知ってるの? もう、覚えたの? 」「うん、今、聴いたからね」とぼそっと答えるデレク。チーフタンズが幾多のゲストを迎えた共演の裏に天才、デレクのマジック技ありだったのです。

デレクは、しかも変人でした。
猫をこよなく愛していて、猫の言葉が喋れるそうで、ツアー中もよく独り言を言ったり、猫の写真と会話してました。実際、家に10匹ほど飼ってたようです。ある時、スタッフが猫のぬいぐるみをデレクにプレゼントしたことがありましたが、とたんに大変なことに。サウンド・チェックだろうが、リハだろうがそっちのけで、そのぬいぐるみに抱きつく、キス。怒るパディ、「猫はデレクに見せるな!」と。
彼はインドの神様と数学と猫には、目がなかったようです。
取り憑かれたように、物事に興味を持つ人で、94、5年頃、京都に行ったことがあって、庭園で「ししおどし」(かけひ)を見て気に入った様子でした。その「かけひ」をアイルランドの自宅の庭ににつくったようで、かけひのことがページ3枚のながーい手紙で絵付きで送られて来たのですが、しかし、手紙にはその「かけい」のことしか書かれてなく、当時は意味不明で理解できなかったのですが、デレクは大きな感銘を受けたに違いなかったのだと今は彼の想像力に敬服します。(取っておけば良かった。)

話は戻りますが、ほとんど一回合わせるとリハは終わり。ゲストの方が「え?もう終わりなの?」と不安げになるが、いつも「あとは本番ステージで!」となるのです。あまりに沢山の公演をこなし、多くのゲストを迎えるため、フレッシュを保つ為の「策」だそうで、リハは1、2回の合わせ、それ以上はやりたがらなかったですね。基本の演奏ができあがっている伝統音楽家の策なのでしょう。

チーフタンズはパディとこのデレクのアレンジのアイデアが核となり、数々の大物ゲストを迎える際も、ロックだろうがポップだろうが、常に"チーフタンズサウンド”化させてしまいます。これは私が特別に脱帽する点でした。

アイルランドの大物シンガー、ヴァン・モリソンとの共作「アイリッシュ・ハートビート」は1988年に生まれました。この傑作アルバムを通して、チーフタンズの音楽は世界のロックファンにも広く知られることになるのです。ちなみにデレクはヴァン・モリソンと親しく、ヴァン・モリソンはデレクを愛していてヴァンと演奏するようデレクを勧誘したこともあったようですが、結局、彼はトラッド音楽をとったのでした。
チーフタンズは93年にはデレクが住むベルファーストのハープ・オーケストラと共演し「ケルティック・ハープ」を発表。ハープはアイルランドのシンボルであり、硬貨にも使われていますが、トラッドのグループにハープを起用したことはパディの最高のセンスだと思います。

95年の傑作「ロング・ブラック・ヴェイル」(ローリング・ストーンズ、スティング、ライ・クーダーら)や99年「ティアーズ・オブ・ストーンズ」(ジョニ・ミッチェル、ナタリー・マーチャント、サラ・マクラクラン、矢野顕子ら)で実証されています。
沖縄はさらに次回にも続きます。







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◆ツアー・エピソード その6

(2020.8.28掲載)

6. 数々の冒険とゲストとの出会い ~ 東大寺にも。


チーフタンズは1983年には中国政府に招かれ、1ヶ月のツアーを敢行し、中国民族音楽団とも共演。万里の長城で演奏した初めての西側の音楽グループになったわけでした。
また、アイルランドを訪れたローマ法王の前で、そして、バチカンでも演奏。2000年代には宇宙船の中の宇宙飛行士とセッションをしたり、と、とにかく人がやってない挑戦をするのが大好きな冒険者たちです。


1994年初夏は奈良東大寺で開かれたユネスコ主催の音楽遺産フェスに「あをによし」出演。この企画は実にすごくて、ボブ・ディランやジョニ・ミッチェル、ライ・クーダーら世界のスターが出演。
ライ・クーダーや喜納昌吉、劉宏軍、レナード衛藤&和太鼓らと共演して、チーフタンズはご機嫌でした。嫌煙家のパディはジョニ・ミチェルには弱く、プワ~と煙を吹きかけられても何一つ文句言わないでニコニコ喋ってた。な~んだあ!

この時、チーフタンズは和太鼓と出会い、感銘を受けたようで、レナード衛藤さんには同年秋の単独ツアーにもゲスト参加してもらいました。レナードさんは「鼓童」の出身と紹介したら、パディは何故か和太鼓のことを「鼓童」と覚えてしまって連呼してました。
和太鼓はステージ映えするし、音がでかいし、エンターテイナーをしてはそのメリハリも気に入っていたようです。

その後、出会った林英哲さんにはこれまた特別にご執心で、2007年、12年、17年と来日の度に、矢野顕子さんと共に、パディから熱い出演リクエストがありました。
「Eitetsu、Eitetsu!」と大絶賛し、アメリカツアーにも参加してほしいと熱望していましたが、しかし大太鼓の運搬は簡単じゃないですね。
この英哲さんと演奏するときは、パディは曲の途中で、どこで覚えたのか「お座敷小唄」をティン・ホイッスルでピロピロ吹き、笑わせてくれたものです。

The Chieftains with Eitetsu Hayashi, Tokyo, 2007


2001年にゲスト初参加した沖縄の名唄者&三線奏者、古謝美佐子さんとの出会いも特別なものになりました。
古謝さんはアイルランドの伝統歌「ポメロイの山々」を歌いたいとアイデアを出してくれ、さらに、歌詞をうちなーぐち(沖縄の言葉)で自ら作詞してくれました。パディは最初、「ボメロイの山々」はこんなんだよ、とマーチで威勢良く演奏、ちょっと皆で驚いたのですが、古謝さんの歌を聴いてすっかり気に入り、ビデオのように仕上がりました。その後も、来日する度に、「Misakoにポメロイを!」とチーフタンズ・ジャパンツアー定番になったのでした。
さらに、彼女は、パディたっての希望で2002年のチーフタンズ・アジア・ツアー(香港、マレーシア、シンガポール)に同行し、喝采を浴びました。

チーフタンズ with 古謝美佐子「ポメロイの山々」2002


1994年単独ツアー東京公演、最終日には特別なゲストが登場しました。チーフタンズはヴァン・モリスンと共演しているし、誰か日本でもロックのシンガーとやれないかな、と考え、忌野清志郎さんにアプローチ。嬉しいことに気持ちよく承諾してくれました。ボブ・ディランの「We shall be released」を歌ってもらったことをよく覚えています。かっこよかったなあ。
清志郎さんは中日ドラゴンズの大ファンで、公演当日は中日と巨人の優勝決定戦。清志郎さんは中日のユニフォームで登場。パディはその姿にぎくっとし、私にそっと「彼はいつもステージでああいう格好をして歌うの?」と。「そうです、彼もエンターテイナーなのです。」
この日、パディの楽屋には鍼灸師が待ち構えていて、鍼の準備のため、ちょっと特殊な匂いを醸し出していた。これを嗅いだ清志郎さんは、「やるな!爺さんたち!」と勘違いし、興奮してたっけな。
清志郎さんは打ち上げで、この人たちとレコーディングをしたいなあ、なんてぼそっと言ってくれてました。そして「明日は俺は子どもの運動会で走んなきゃいけないんだ」と家族のことも。謙虚で思いやりがあり、抱きつきたくなるほどチャーミングな笑顔の人懐っこい人でした。

この頃、パディ・モローニは「寝る暇ももったいなく、クリスマスもお正月も仕事した」と語る。
せっかちで仕事魔で、、、、何事も早かったです。日本のツアー中など、早朝に私の自宅まで電話してきて、「起きたか、KEIKO? 昨日見た写真だけど~」と始まる。「そんなこと、急ぎじゃないでしょ!」とは言いませんでした(笑)。
沖縄の話は次回に。




【3回目の来日公演】
「GME '94 ~21世紀への音楽遺産をめざして~ AONIYOSHI」
1994年5月20~22日 奈良・東大寺 大仏殿前庭

【4回目の来日公演】
1994年
9月29日 沖縄 クラブ・ジャヴィ
9月30日 大阪 IMPホール
10月3日 福島 會津風雅堂
10月5日 神奈川 グリーンホール相模大野(ゲスト:知久寿焼)
10月7日 東京 新宿リキッドルーム(ゲスト:レナード衛藤、我如古より子)
10月8日 東京 九段会館(ゲスト:忌野清志郎)



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◆ツアー・エピソード その5

(2020.8.19掲載)

5. パディ・モローニは19室も部屋を変わった!!


リーダーのパディ・モローニは嫌煙家で、ちょっとでも煙の匂いがするとホテルの部屋を変わることで有名。
確か、94年の3回目のツアーの大阪でのこと。一つのホテルで19室も彷徨い、どれをみても気に入らない。「ここは何年か前に誰かが吸った」「え? 何年も前に!」
ホテルのスタッフ数名がジャラジャラと部屋の鍵をもって、パディに続く。私やマネージャーはホテルのバーに逃げた(笑)。果てはバーまで電話してきて「気にいらんぞ?!」と。
気にいるならスイートでもなんにでもしてくれーと降参していたら、結局、もとの一番普通の部屋に収まりました(笑)。
もちろん、いつだったか、ホテルごと変わったこともありました。

その前の93年もひと騒動だった。
アイルランドから18時間ほどかかって東京着、渋谷パルコ近くの公園通りのホテルにチェックイン、鍵を手にしたメンバーはエレベーターに消えた。やれやれとひと息つくや、驚いたことに、スーツケースや楽器を手に、メンバー全員(マネージャー以外)がロビーに降りてきた。「部屋が狭すぎるぞー!」アッチャー!至急、ロビーであちこちのホテルに電話するも、当日で10部屋なんて空いてない。何件もあたり、1時間ほど経過。後でロビーに降りてきたマネージャーが、あれ?どうしたの?何かあったの? と。この落差が面白い。
もう疲れ果てていたメンバーは、「今日だけは許してやる、ここでいい」と。しかし、渋谷は便利で楽しく、メンバーは東京4日間ずっとそこに"ご機嫌で"滞在しました(笑)。

グループの中で唯一の喫煙家、マーティン・フェイはとりわけヘヴィ・スモーカー。楽屋でもホテルでも、いつでもどこでも、耳に一本挟んで(時に鉛筆も)、まるで競馬の賭け事師のような風情。
こんな2人が一緒に旅ができたもんです。でも、大丈夫、チーフタンズのメンバーは6人が6人とも個性が異なり、ステージ以外では、こちらが用意した食事会以外は、見事に、全く一緒には行動しないのです。朝食時もまるで見知らぬ者同士のようにバラバラに座り、互いに新聞で顔を隠す。あまりに長く、いつも一緒に旅をするから、新鮮にいるためのコツだったのかもしれません。
共通して言えるのは、皆、「頑固者」だったこと。言い出すと聞かない。だから、もう、ステージ以外はバラバラ。

パディは考えを譲らない、「照明は当てるな!イーリアンパイプのキーが変わる!」「楽屋にビールは出すな!」とかよく口角泡を飛ばし指示を出します。
マーティン・フェイは優しい人で、あとでこっそり、「大丈夫だよ、あまり、気にしなくていいよ」と声をかけてくれたものです。だからよく飲みに誘ってあげました。一度、マーティンが「今日こそ、俺がご馳走する」と言って何度断っても頑固にきかない。俺のおごりだ?!と意気揚々と店に入った、ものの、2、3杯飲んだ後の支払い時に目が点になった。東京は高いのです。高いバーだったかも。結局、また、こちらが支払う羽目に(笑)。可哀想なほど落ち込んで恐縮したマーティン。
アイリッシュは頑固な上、可愛いな、と思ったものです。
ずっこけるほどのストーリィ満載の人々なのです。

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◆ツアー・エピソード その4

(2020.8.13掲載)

4. 元は皆、堅気の会社員だった!


ザ・チーフタンズが誕生したのは1962年。50年代は伝統音楽に興味を示す人は全くいなかったようで楽器も隠してもっていたそうだ。ティンホィッスルなんか持ち歩くだけで、腰抜け呼ばわりされたとか。なので、パディは建築会社の経理マンになり、マーティン・フェイは電気機器会社、ショーン・キーンも郵便局の技師、遅れてメンバーになったマット・モロイもエア・リンガスに就職していた。

正式にグループが発足し、その翌63年からレコーディングを行うも、夜や週末に会社に隠れて活動するといった具合で、当時、伝統音楽のミュージシャンはビールをギャラがわりにパブでセッションをしたり、劇場の幕間に演奏したりがせいぜいで、音楽で食っていけるなんて、誰にも考えられなかったそうです。
パディは「この音楽を必ず世界に知らせるんだ!」と強固な意志を持ち、72年にはアメリカへの遠征を達成します。73年にはのちの相棒、デレク・ベル(ハープ)と出会い、75年、ついに、英国で憧れのロイヤル・アルバート・シアターを満員にしました。このロンドン公演を大成功させた感慨、伝統音楽のグループがそこまでやれたという達成感はひとしおだったろうと思います。それまでの伝統楽器さえ禁じられてきた長い虐げられた歴史を思うと、私たちには計り知れないアイリッシュとしてのが満足感があったろうと想像できます。 そしてこれを機に、メンバーは家族の不安を押し切り、いよいよ、フルタイムのミュージシャンになるわけです。
先の見えない、それまで成立し得なかった職業、伝統音楽のコンサート演奏家へ。


さらに運良く、1975年スタンリー・キューブリック監督の映画「バリー・リンドン」の音楽に抜擢されチーフタンズの音楽は世界中に知られるようになります。
この映画音楽を依頼された時の話が面白い。パディの自宅にスタンリー・キューブリック監督自らが電話をしてきたそうなのです。しかし、その時、パディはキューブリック監督のことを知らず、「今忙しいから、また、来週連絡をくれ。」と電話を切ってしまったらしいのです。この話はいつも大笑いして話してくれます。



チーフタンズは再来年2022年には結成60周年を迎えます。
「堅気の仕事を続け、65歳で悠々と引退する」と考えていた若い頃もあったというパディ。80歳を過ぎても意気軒昂、2人のメンバーは他界(デレクとマーティン)一人は引退しましたが、何十年も核はかわらず、硬いスピリットで繋がってきた驚異のグループです。






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◆ツアー・エピソード その3

(2020.8.7掲載)

3. 奇跡の高島町と松江公演 ー第2回目の来日時。

2回目の来日1993年にアイリッシュパブが初めて原宿に誕生し、チーフタンズの来日ウェルカムパーティをそこで開催、大いに盛り上がった次第。
この2回目公演の「パルコパート3」ではキャパ300人の会場で連日完売、追加も入れて、4回公演を達成する快挙!
このツアーではダンサー、ジーン・バトラーが初登場。パルコパート3のステージが狭すぎて足がつり、リバーダンスの初代プリマドンナ、世界のプリマドンナ、ジーンに申し訳ないことを。私はあの長い美しい足を終始マッサージをする役得に。

さて、人口6000人の小さな町にチーフタンズ! 
この年、滋賀県高島町という小さな町に、アイルランド人作家ジョナサン・スウィフトのガリバー旅行記から発想を得た「アイリッシュパーク」が誕生し、「ガリバーホール」というホール(キャパ500人)ができた。チーフタンズははるばるダブリンからホールのこけら落としに招かれたのです。高島町役場主催。
6歳から80歳のおばあちゃんまでまるで町中が集まったかのような賑わいでウエルカム、この時、数十人の子どもたちがアイリッシュホイッスルを吹いてチーフタンズをステージでウェルカムしようという話になったのですが、ステージの上で観客に向かって吹くとチーフタンズにお尻を向けるし、チーフタンズに向かっての演奏だと観客に失礼だし、一体どうしようと役場の人たちがあれこれ悩んだのです。結局、ステージ最前列にならび、バンドを歓待したのですが、町役場の方々のどたばた配慮ぶりが素朴で、まるでアイルランドの片田舎の出来事のような暖かい会でした。
(後にパディ・モローニがインタビューで「日本人音楽家たちとも多くの共演を重ねてきた。滋賀の高島町で子どもたちが《ダニー・ボーイ》の演奏で歓迎してくれたことや、沖縄の音楽大統領(照屋林助)との出会いなどは、特に美しい思い出として心に残っている」と語っている)

この時のツアーでは、アイルランドを父に持つラフカディオ・ハーンが19世紀末日本にやってきて住み着いた土地、島根県松江にチーフタンズを連れたいと強く思い、つてもないが市役所にアプローチ。
今思えば、よくやれたものです。
松江のプラバホールに遠征しました。
松江は小泉八雲がかつて日本に帰化し執筆のイマジネイションを得た地であり、八雲館も創設されているゆかりの地。しかし、町中でチーフタンズを知っている人は2人しかいない、一人は当時在住のアイリッシュがいて、もうひとりは地元の短大の先生、だそうで。バンドはアイルランドの音楽大使だし意義ある公演になるだろうと、一旦は前向きになった市役所担当者も、これにはガックリ肩を落しました。
しかし、諦めない!短大の富井先生(詳しくは当時の新聞記事へ)の愛情は深かった(笑)、教育会が腰を上げ、小泉八雲の関係者や町ぐるみで応援してくれ、当日は500席のホールが満杯になりました。先生が生徒をたくさん引率し、公演後は楽屋に女子大生がムンムン溢れ、デレク・ベル(ハープ)大はしゃぎの図でした。

マット・モロイ(フルート)は小泉八雲記念館を訪れ、後日小説にも触れ、いたく感動したようです。マットが住むメイヨーは西アイルランド、ゴールウェイから1時間ほどの場所にあり、行く道にはゲール語がまだ日常的に話されている土地もあり、山や湖に精霊が宿ると考えられています。八百万の神々が集う出雲の国、島根は、霧のかかった海にのぞみ、アイルランドと共通する気候ですが、100年も前に日本にやってきたアイルランド人作家がゴースト(怪談)の話を書いていた!ということに、仰天したようです。そう、日本とアイルランドには共通の精神、「神様は山にも森にも川にもいる」というアニミズムの考え方があります。このケルトのスピリットが、島根で、小学生でも学校で学んだ"幽霊の不思議なストーリー"を生んだのです。

話は飛びますが、小泉八雲が日本で怪談を書いていた頃、アイルランドではイェーツが日本の能に触発され、能の原作「鷹の井戸」を執筆していました。(ケルティック能「鷹姫」はこちら)日本とアイルランドには100年前から、いや、八百万の神々、縄文の時代と古ケルトの時代から、自然崇拝/精霊崇拝の精神が共通していたのですね。




【2回目の来日公演】
1993年
11月3日 滋賀・ガリバーホール(ゲスト:高島町アイリッシュ合唱団)
11月4日 大阪・IMPホール
11月5日 島根・プラバホール
12月7~8日 東京・PARCO SPACE PART 3(ゲスト:知久寿焼、さねよしいさ子、チト河内)
チーフタンズ:パディ・モローニ、マット・モロイ、ショーン・ケーン、マーティン・フェイ、デレク・ベル、ケヴィン・コネフ
ダンサー:ジーン・バトラー


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◆ツアー・エピソード その2

(2020.7.28掲載)

2. お決まりのスピーチから始まる舞台

チーフタンズのステージは毎回お決まりのパディのスピーチで始まります。落語のよう。観客に向かって一方的にゲール語でまくしたて、あ!(さも今、気づいたかのように)、ソーリー、ソーリー(ごめん)と英語になり、どーッと笑わせるのです。私の知る限り30年以上やってる(笑)。いつから始まったのだろうか。しかし、飽きずにずっとやってるところが常識(?)を超えているし、見る側も毎回の芸を見て「きた?!」と興奮するのです。
そして、「世界一素晴らしい町、ダブリンからやってきました!」と喋ります。世界一素晴らしいと誇りをもって言い切るところが実に羨ましいし、それは返せば、アイリッシュトラッド音楽への誇りなのだと思います。ルーツを知ること、ルーツに誇りを持つこと、これはチーフタンズから教わった最大の感銘のひとつであり、また、のちに仕事をした多くのジプシーたちからも学んだ素晴らしいスピリットです。
私たちが「世界一素晴らしい街、東京から来ました!」と言えるようになるだろうか、、。
チーフタンズは毎年春にはアメリカで2、3ヶ月ツアーをしています。アメリカにはアイルランドからかつて(19世紀)止む無く海を渡った百万人以上の移民がいます、ジャガイモ飢饉です。その子孫たるや4000万人になると言われますが、そういった人々皆に向けても、また、イギリス、カナダ、オーストラリアなど世界に拡散したアイリッシュに、そして、ブルターニュやガリシアなど、ケルト文化の地域に向かって、世界のふるさと、世界一素晴らしい町、と誇りを共有しているのだろうと感じたりしました。

そして、其々、全く違っているメンバーのキャラを、音楽性と共に、フューチャーします。演出なのか、素なのか、ぎりぎりの感じでエンターテインメント。まるでコメディのような面白さがあります。

95年のオーチャードホールの公演を見た泉麻人氏が週刊誌(文春)で書いたコラムがすこぶる楽しかったです。
『チーフタンズの6人は、大方、六十代か、ヘタをすると七十にかかっている方もいそうな、老練なメンバーで、パッと見したときはこんなことで2時間もつのだろうか、、、と少々心配になったが、あに図らんや、実にエネルギッシュかつ素敵なステージが展開された。?中略(ゲストの矢野顕子やロリーナ・マッケニットにも触れ、絶賛)?
チーフタンズのハープ担当の太った男は、独奏を終えて、拍手喝采を浴びると、ポケットチーフをすっと取り出して、客席に向かってヒラヒラ廻して見せて、おどける。そのときに、バンマスのパイプ担当の男が、おいおいナニやってんだ、調子にのりやがって、、、と、苦い顔をして首を傾げる。
そんなやりとりに、クレージーキャッツやドリフターズをふと思わせる、コミックバンドの匂いも感じられる。
こういう、もの凄い老練バンドを観ると、欧米音楽界の底の深さを思い知らされる。』
このチーフタンズの有様は、(一絡げの欧米とは違って)とてもアイリッシュ特有に思います。演劇心があり、皮肉やで、お話好きのアイリッシュならではの、「観客の楽しませ方」なのだと思います。ブロードウェイなどとは比べられない素朴な、そして何より、「人柄が伝わる」エンターテインメントなのです。
チーフタンズが世界で愛されてきた所以はその豊かな音楽性のみならず、こういったアイリッシュを背負った姿勢にもあるような気がします。






【5回目の来日公演】
1995年
11月28日 大阪・近鉄劇場
11月29日 愛知・名古屋クラブクアトロ
11月30日 富山・円形劇場ヘリオス
12月2日 東京・Bunkamuraオーチャードホール
12月3~4日 東京・グローブ座
チーフタンズ:パディ・モローニ、マット・モロイ、ショーン・ケーン、マーティン・フェイ、デレク・ベル、ケヴィン・コネフ
ダンサー:キャラ・バトラー、ダニー・ゴールデン
ゲスト:ロリーナ・マッケニット、カルロス・ヌニェス、矢野顕子


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◆ツアー・エピソード その1

(2020.7.22掲載)

1. せっかち爺さんたち

ザ・チーフタンズの初来日は1991年9月。世界中で有名も無名も関係なく、「21世紀に向け普遍的なアーティストを、自分たちが本当に見たい人だけに声をかけよう」と細野晴臣、清水靖晃プロデュースのもと、プランクトン制作で行なった音楽フェス「東京ムラムラ・フェスティバル」の出演のための来日でした。
この「東京ムラムラ」は10日間に渡り、7、8組の外国勢(マイケル・ナイマンやヴァン・ダイク・パークス、カルロス・ダレシオ、ジョン・ゾーンにビル・ラズウェル、メシオ・パーカーなど)と日本チーム(清水靖晃や無声映画合奏団など)が出演し、音楽のジャンルを超えた、いわば、世界音楽図鑑とでもいった様相の実に面白いプロジェクトでした。
この時、メンバー6名とダンサー2名が来日。プランクトンの製作陣は上記の様々な国からのアーティスト連の迎えと現場制作をたった数名でこなし超てんてこまい、連日成田空港通い。なんの間違いか、チーフタンズの迎え時に、アテンド通訳が空港に到着しなく、日本に彼らが降り立った時から大ミス! しびれを切らしたパディ御大が空港から引きつった声で電話がはいった!
「一体全体、俺らをどれだけ、こんな退屈な空港に待たしておくんだ?ッ!!!」
この時から、「あ、この人たち、せっかちなんだー」とわかったのでした(笑)こちらのおマヌケ具合はさておき(笑)。
その後、事あるごとにその教訓を感じる羽目に。10分でも待たすと、帰るッ!と言い出すのです。「せっかち」は御大だけでなく、メンバーも大なり小なり。
2回目の来日時、パルコパート3で公演した時は、公演が終わりアンコールで再登場。が、マーティン・フェイ(フィドル)だけ楽屋にもトイレにもどこを探してもいない!!?焦りまくり。アンコールはマーティンなしで! 彼はステージを終えたあと、フィドルとケースを手に、すぐさまトットとホテルに帰ってしまっていたのでした! (早くホテルに帰っても別に用事があるわけでもない。バーに直行なのです(笑)。)当然、、平気な顔して5人は演奏する。よくあるのかなあ、って?
セッカチぶりは驚くべきで、その後のどの公演でも、会場に入ったらストレートに舞台に登り、サウンドチェックを始めるので(大抵は他の音楽家は楽屋でお茶を飲んだり喋ったり、しばしくつろぐものです)、舞台スタッフもいつもピリピリ。
1秒も無駄にしないチーフタンズ。恐るべし!でした。

ちなみにこの「東京ムラムラ」では1夜に2グループが出演するしかけで、もうひと組はアフリカ・タンザニア、ザンジバル島の「ザ・ミュージック・オブ・ザンジバル」。アラブの旋律を奏でるバイオリン4名と大正琴やパーカッションなどからなるグループで、この素朴な、おそらく、自己流のチャーミングなバイオリン奏者たちはチーフタンズのスキルに驚く。楽屋ではチーフタンズのショーン・キーンやマーティン・フェイが一所懸命弾き方を教えていて、実に微笑ましかったですよ。
この「ムラムラ」では観客は150人ほどで2日間の公演。このころは日本にはまだ、アイリッシュ・パブが一軒もなかったし、チーフタンズのアルバムも日本では発売されていなかった。ピーター・バラカンさんが朝日新聞で絶賛してくれたのがとても嬉しかった思い出があります。

【初来日】1991年9月17日 東京パーンホール
「東京ムラムラデラックス版」出演
チーフタンズ:パディ・モローニ、マット・モロイ、ショーン・ケーン、マーティン・フェイ、デレク・ベル、ケヴィン・コネフ
ダンサー:フリーダ・グレイ
ゲスト:劉宏軍


ザ・チーフタンズ初来日(1991年)



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