「厄介な風」
ひょっとすると、ぼくらは誰もが心の中に風を抱えているのかもしれないなあ、と思えることがある。ときにそれが乾いた空気を運び込んだり、湿り気を吹き込ませたり、あるいは穏やかに心落ち着かせたり、激しく嵐を巻き起こしたり、といろんな感情の変化をもたらすのではないか、と。そして、その風は自由で、どんなものにも縛られることがない。だから、ある意味では厄介で扱いにくい。リアム・オ・メンリィは、まさしくその厄介な風のような存在だ。歌に対して真っ直ぐ向かい合い、見栄だとか富だとか、芸術だとか時代だとか、そういった小賢しいものは彼の前では一切役にたたない。彼は、彼自身の旅として歌と向かい合っている。彼の歌声に、ぼくらが胸をうたれ、涙を流さずにはおれないのは、おそらく、彼の歌を通じて、ぼくら自身の風の存在を感じているからなのかもしれない、と思う。日々の営みの中で、本来はこうありたいと願ってはいながら、世の中のしがらみを前に逃げたり諦めたりして、狡さだとか卑しさだとかを身に着けていく。そうやって、日毎にずる賢くなっていく自分の中に、深く微かに潜んでいる風の存在を感じることができるからではないか。だからこそ、理由もなく涙がこぼれてくるのではないか。とまあ、あれこれ考えたりしているのだけど、そんなことさえも意に介さず、今日も彼は何処かの街で歌い、ポケットからティンホイッスルなど持ちだしては、哀しい歌、嬉しい歌、淋しい歌、楽しい歌をその街角に響かせているに違いない。その歌たちが、次はどんな風を運んできてくれるのだろうか。
天辰 保文
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「無敵の天然力」
極端なもの忘れとか依怙地さとかいった負の属性を勝手に正であると主張して周囲を納得させてしまう年寄りの不思議な自己肯定能力のことを、昨今、巷では「老人力」と呼んでいるようだが、ならばリアム・オ・メンリィは「天然力」の人である。「天然力」とは、どんな状況下にあっても、ありのままの自分自身をさりげなく無防備に提示できる柔らかく強靱な自己実現能力のことだ。しかもそれは、決して偏狭なエゴの押しつけや意識的な自己主張などではないし、ありのままの自分自身に対する自己認識とも無関係である。つまり、スッ裸の赤ん坊が持つ恐るべき無防備パワーのようなものだが、リアムの場合、この「天然力」が周囲の人間にもことごとく伝染してしまうところがすごい。彼が歌うと、いや、彼がただ立っているだけで、半径50メートルが天然ゾーンに変わり、そこにいる人々全てが知らず知らずのうちに外に開かれ、「天然力」を身につけてしまう。これはひとつの魔術のようなものである。
リアムがたった一人でやって来るという。一人でピアノやギターを弾き、一人で歌うという。地方では、旅館の広間や市場の屋上でも歌うという。PAがない場所もあるという。つまり我々は、文字通り一対一でリアムと向き合うことになる。全身の毛穴から噴き出る彼の純朴なソウルと無敵の「天然力」は、いかに我々を柔らかく開き、いかに天然ゾーンを作り上げてゆくのだろうか。こんなスリリングなライヴは、めったにない。
松山 晋也
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