SANSEVERINO
サンセヴェリーノ

「サンセヴェリーノ」仏 コンサート・レポート
ラティーナ誌(2005年5月号)に掲載されたサンセヴェリーノのコンサート・レポートをご紹介します。彼のライヴは本当には楽しさ爆発で本当に素晴らしいそう(フランスではチケットはいつも即完売!)。来日公演をお見逃しなく!


ラティーナ(2005年5月号)より

文:田中紀子

毎年夏至の日にフランス国内で開催される音楽祭Fete de la Musiqueは、夏の始まを告げる風物詩で、街のいたるところで無料のコンサートが行われる賑やかな一日だ。

2004年の夏、パリに発つ直前にサンセヴェリーノの最新作『セネガレーズ』を輸入盤で手に入れ、本格的なマヌーシュ・スウィングと、それを煽るように乗っていくべらんめぇ調のフランス語が生むドライヴ感、そしてキャッチーで親しみやすいメロディーに私はすっかり虜になっていた。そんな矢先、運良く到着直後の音楽祭に彼が出演することを知って、胸が躍った。

 6月21日、長い日もようやく落ちかけると、会場の公園には続々と人が集まりだし、この日はサッカーのヨーロッパ選手権<ポルトガル×スペイン>の試合日だったにも関わらず、ステージ開始前には芝生のグラウンドが大勢の客で真っ黒に埋まった。「サッカーの試合はいいの!?」音の印象どおりの、気さくでファンキーな下町兄ちゃん的風貌のサンセヴェリーノが大歓声を受けて登場した。ステージの魅力は後ほどお伝えする事として、この日フランスのオーディエンスに交じって彼のライヴを体験し、非常に印象に残ったのは、決してフランス人にも口ずさみやすいとは思えない彼の早口機関銃ライムを、老いも若きも大勢のお客さんが大声で(ときに必死に)合唱していた光景だった。

ステファヌ・サンセヴェリーノ。1962年パリ生まれ、イタリア系移民の3世だ。旅好きの父が転勤の多い製紙業に転職して以降、家族と共に3歳から16歳までをブルガリア、ニュージーランド、ユーゴスラビア、メキシコなどで過ごした。20歳のときに喜劇役者を志し、マルチなエンターテインメント技術を手っ取り早く身につけるため劇団に入団。そこでギター、舞台俳優、バンジョーなどを学び、更にイタリアの古典即興劇や、道化師役の勉強もした。
 一方、80年代後半のフランスでは、古いシャンソンや、自分のルーツの民俗音楽、または当時は古くさい楽器とされていたアコーディオンを、パンク〜オルタナを経たロック的手法でミックスさせた若手バンドが登場していた。そんな中でサンセヴェリーノも、ジャンゴ・ラインハルト、ジミ・ヘン、AC/DC、カントリー・ブルーグラス、ミュゼットなど幅広いジャンルを聴いて過ごした。そして師のジャンゴが、ジャズドラムをギターに置き換えマヌーシュ・スウィングを生んだように、自身が雑食してきた音楽のフィーリングをギターと歌に変換した新しい音楽表現を模索しはじめた。その後俳優業を併行させながら、いくつものバンドを経験したが、中でも92年に結成したバンド、レ・ヴォルール・ドゥ・プル(ニワトリ泥棒)は、バーを中心とした全国のライヴ行脚で注目を浴び、アルバムも発表して順調に人気を伸ばした。しかしその7年後、メンバーの方向性の違いでグループは解散してしまう。

99年、遂にソロ歌手/ギタリストとしての道を決意した彼は、翌年にプロダクションのCH+と契約を交わし、初のソロ作『タンゴ・デ・ジャン』を仏ソニーから発表する。2003年には仏版グラミー賞といわれるVictoire de la Musiqueのステージ部門新人賞にも輝き、そしてこの度、めでたく日本盤が発売される最新作『セネガレーズ』(フランスでは昨年3月発売)も、フランスでは早々とゴールド・ディスクを獲得している。

CH+プロデューサー、クリスチャン・エルゴー氏はこう語る。
「『タンゴ・・・』を発売した後の彼の人気は、うなぎ登りだった。この頃ちょうどフランス人も、U?手レコード会社)などがテレビで喧伝するまがいものの才能にうんざりし始めていたし、だから、オリジナリティと作曲能力、そしてギタリストとしての素晴らしい才能を全て備えていた彼が注目されたんだろう。それと彼はステージ上で、実に上手に観客とコミュニケーションをとる。そこが他のアーティストと大きく違うところだね。」 

音楽祭の翌週、新作『セネガレーズ』の発売記念ライヴが、パリのショービジネスの殿堂、オランピア劇場で行われた。会場には10代の学生風グループや、家族連れ、老年のカップルなどほぼ全年齢層が揃っていた。

ステージは『セネガレーズ』の冒頭曲、軽快なマヌーシュ・スウィング・スタイルの「JEAN-LUC」でスタート。2人のリズム・ギター、コントラバス、鍵盤奏者の4人を従えての演奏は、アルバムのテンポをさらに3倍速(!)にした豪速スウィングだ。しかしその演奏のカッコよさを自ら裏切るような、ジョークやふざけた比喩を満載した愉快な歌が次々と飛び出す。例えば「ばぁちゃんの埋葬」という曲では、“女房がジャン・クロード・ヴァンダム似”だったり“人は良いけど曖昧なとこがトニー・ブレアみたい”な親戚が登場して、葬式で誰もが経験したことがあるような“笑っちゃいけないからなおさら可笑しい”状況をユーモラスに描き、「歯医者さんの七つ道具」では、治療器具の音をスキャットでリアルに再現しながら、歯医者での緊張感を滑稽に歌にし、「命は惜しいが吸っちまう」ではタバコの害毒を説きつつ、元気に“吸え、吸っちまえ!”と歌ってみる。その語幹の粋なキレ味は、落語や講談のそれに近い。
 
 「ばあちゃんちの戸棚には、お菓子とか贈り物の包み紙がいちいちしまってあって...」MCではたびたび祖母の思い出話が登場したが、彼が20-50年代のシャンソンに親しんできたのは、歌が好きだった祖父母や両親の影響だという。古いものへのノスタルジーと、パンク〜オルタナ世代のニヒリズムと荒唐無稽さ、さらに当時の同系バンドになかった高い演奏技術が、絶妙のバランスで調和している。

アンコールの呼び声に再度ステージに登場したサンセヴェリーノは、グランド・ピアノの傍らに立ち、ボリス・ヴィアンの反戦歌「原子爆弾のジャヴァ」を歌いあげた。スポットライトに浮かびあがる彼の凛とした姿と、大袈裟なジェスチャーを交えて観客に語りかけるように歌うスタイルは、往年の名シャンソン歌手の迫力と気高さを思わせた。ヴィアン(40-50年代に活躍したフランスの作家)は、人々が戦時下の悲劇的な日常を生きて行くために必要とした、笑いや共感を生むシャンソンの名曲を残したが、彼の人々に向けられた優しい眼差しは、戦場で負傷し死に近づいていく兵士の悲しみを、ユーモア溢れる語り口で歌ったサンセヴェリーノの美しいオリジナル曲「生ける谷間に眠る男」にも感じる。笑いと涙が育んできたシャンソン・フランセーズの伝統と、彼の敬意を感じさせる秀曲だ。

パリ滞在中には、ロンシャン競馬場内で行われた野外フェスSolidaysでも再びサンセヴェリーノのステージを見たが、どの公演も、終盤までとぎれることのない集中力とそのハイヴォルテージぶりに圧倒された。またどの公演も、とにかくしゃべり倒していた。しゃべっていないと死んじゃいそうな彼が、日本のお客さんを前に果たしてどんな芸で楽しませてくれるのか!?今からその日が待ち遠しい。