(株)プランクトン

お問い合わせ
03-6273-9307
(平日11-19時)

E-mail:
info@plankton.co.jp

Celt-introduction

ケルト

ケルト音楽

ケルト音楽
ケルト音楽はアイルランドを中心に、スコットランド、ウェールズ、ブルターニュ(フランス)、ガリシア(スペイン)などの地域で多様に受け継がれている。
また、アイリッシュやスコティッシュが何百万人も移民したアメリカ東海岸やカナダ東部のノヴァ・スコシアなどにケルト移民文化が定着している。1850年頃、アイルランドで起きたジャガイモの大不作による「大飢饉」では100万人ものアイリッシュは国を離れることを余儀なくされたのである。
アメリカ、イギリス、オーストラリアなどへ渡った移民は同時にその地に音楽をもたらした。アイリッシュ・ミュージックはアメリカに渡り、カントリー、ブルーグラスを生み、そして、米黒人のブルースと融合し、ロックが生まれた。つまりロック、ポピュラー音楽のルーツといえるのである。
私たち日本人も今日、ケルト・アイルランドの伝統音楽を聴いたときに、そのメロディにどこかで聴いたことのあるような不思議な懐かしさを憶える。それは、島の哀感の共通性があるのかもしれない、あるいは、多くの人々がポピュラー音楽を通して、無意識にもケルト音楽を聴いているからかもしれない。
現在、アメリカには現在4000万人近くののアイリッシュの移民系人口がいると言われ、アメリカ最大の民族となっている。アイリッシュは自国の10倍以上の人口が海外に移民し、音楽家も世界中で活躍している。
1950年代、60年代より、アイリッシュ・ミュージックのリヴァイバルが起きた。それまで家やパブで自分たちのために演奏されていた「パブのアイリッシュ音楽」が、より多くの人々に楽しんでもらう「コンサートの音楽」へと発展する。楽器が上手い近所のおじさんの演奏から、プロフェッショナルなミュージシャンへと、音楽的にも高度なアレンジが施され、魅力的に発展した。このリヴァイバルのきっかけをつくったのが故ショーン・オ・リアダという、伝統音楽とクラシックを繋いだ天才的音楽家であり、その後、62年にはチーフタンズが生まれ、続いてプランクシティ(ドーナル・ラニーら)などが活躍した。今日、この復興第一世代、第二世代から、孫の世代の10代の演奏家たちまで、あらゆる年齢層のケルト・ミュージシャンが第一線で活躍し、伝統と生活から生まれた「本物」の音楽のすごさを世界中で聴かせている。
ケルト音楽は伝統音楽であるが、博物館に閉じこめられた過去の標本としての音楽ではなく、ポピュラー音楽と同様に現在に生きる魅力的な音楽である。ケルトのミュージシャン達は伝統を受け継ぎながら、過去をなぞるのではなく、常に新鮮に、斬新に、自分のスタイルを模索し、変化変容している。
それはケルト自体が、良き伝統でありながら、伝統で縛らない、「許容力の大きさと時代に生きていく生命力の太さ」を持っているからではなかろうか。アイリッシュはもとより、ガリシア(スペイン)、ノヴァ・スコシア(カナダ)、アメリカと世界中で活躍しているケルトのミュージシャンは、伝統を生かしつつも伝統に縛られることなく、様々の自由奔放なスタイルで、今日のケルト、明日のケルトを響かせているのだ。

一般への浸透
ケルトの音楽は、映画「タイタニック」での船上の音楽や、映画「冷静と情熱の間に」にテーマ曲のヒットなどにより、一般の人々にも親しみやすく聴かれるようになった。また、アイリッシュ・ダンス「リバー・ダンス」「ロード・オブ・ザ・ダンス」などの人気により、ケルト音楽への関心は世界的に拡大し、幅の広い観客層に支持されている。そして、アイルランドのエンヤのCDはアメリカで600万枚、日本でも100万枚を越すという、ロックのビッグアーティストでもなかなか達成しない大ヒットを生み、世界で圧倒的な人気を得ている。

ケルト民族とは

ケルト民族とは
ケルト人は、オーストリア、ドイツ、スイスのアルプス地方を原郷に、紀元前500−50年頃、ヨーロッパ全土に広がっていた先住民族だった。ローマ帝国に追われるまでケルト文化は全盛期を築き、広大な地域に居住していた。
しかし、紀元前1−2世紀にローマ帝国に征服され、続くゲルマン民族にも追われ、西へ西へと、現在のアイルランド、スコットランド、マン島、ウェールズ、コーンウェル、ブルターニュなど、ヨーロッパ最西端に辿り着き生き延びた民族である。言語はインド・ヨーロッパ語のケルト語派に属すそうで、アイリッシュのゲール語、スコティッシュのガーリックは同一ではないが近縁にある。アイルランドではイギリスの800年にわたる統治下、英語が公用語として浸透したが、現在も北部、西部の一部の地域ではゲール語を第一言語、日常語として話す人々が存在する。アイルランド政府はゲール語の復興に力を入れ、ゲール語のみの放送局(TV、ラジオ)、学校教育を普及させた。

もう一つのヨーロッパのルーツ
元来、ヨーロッパ文明の源流といえぱ、古代ギリシャ・ローマの古典文明であるとされてきた。ケルトの文化は、ヨーロッパにあって2500年以上の歴史を保ってきたのであるが、その原点の古代ケルト人は文字を持たず、記録を全く残さなかった。このため、「幻の文明」として謎めき、長く、ギリシャ・ローマ文明の蔭に埋もれていた。
近代の、美術、文学研究により、もうひとつの重要なヨーロッパの根源として、この「ケルト文明」の存在が全世界的に注目を浴びるようになった。いわゆるヨーロッパ的思想の基本、人間の身体と意識が世界の中心をつくるという、人間中心主義はケルトの考えには存在せず、人間・動物、自然界が連動する、宇宙的思想であったといわれる。
その実像が明らかになるにつれ、ケルト的思想が脚光を浴びてきた。98年の日本での東京都美術館での「ケルト展」でも、ケルトがヨーロッパの中の「非ヨーロッパ」「もうひとつのヨーロッパの根源」ということがテーマとして展開された。
では、その考え方についてー。

ケルトの世界観
神話や遺跡、陶器など、残されたケルトの足跡から浮かび上がるケルトの伝統、そこには唯一絶対の神がいたわけではなく、ギリシャ人のように神々を擬人化して崇拝することはなかった。
彼らが崇拝した神々は400を越える自然そのものの化身であった。神秘に満ちた森の木々、海の彼方を崇め、現世と来世(異界)を自由に繋ぐ神話世界を表現したのである。
ケルト人の世界観は、自然界の死と再生の輸廻を思想としているといわれ、我々日本人や東洋の思想とも共通する。ケルトのイメージ、造形では、人間・動物、自然界は連動している。
映画「ロード・オブ・ザ・リング」もこういったケルトの神話、世界観がベースとして描かれている。アイルランド最北端ドニゴール出身の、エンヤの歌やアルタンのマレート・ニ・ウィニーの歌にはケルト的世界観が感じられる。

ケルトの美術

ケルト美術−模様
ケルトの文様は、ケルト人がまだ、ヨーロッパ大陸にいた紀元前5世紀頃から、かれらの装飾美術に登場し始め、それから1000年後には、「ケルズの書」を頂点とするキリスト教の聖書写本に復活し、最盛期を迎える。
更にそれはアイルランドの800年にわたる被支配の時代をくぐり抜け、イエーツ、ジョイスなどの文学者達が活躍した、19−20世紀、ケルト伝統のシンボルとなってリヴァイバルする。
ケルト美術は渦巻き、螺旋(らせん)、入り組んだ抽象模様が特徴的である。渦巻きという形こそ、ケルト神話のテーマである人間、動物、植物などの自然形態を抽象化・文様化したものであると考えられている。
ケルトの<文様>は始まりも終わりもなく、永遠の律動を繰り返す。これは、ケルトの世界観は自然の生々流転を内包した輪廻転生の考え方をもっていたということを物語っている。21世紀今も、これら渦巻き文様は、私たちに強烈なメーセッジを放っているかのようだ。

*美術関連参考書「ケルト/装飾思考」「ケルト美術への招待」「ケルトの歴史」(鶴岡真弓/編著訳)等