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千年にわたる流浪の民ジプシーの旅
 ジプシー民族は11世紀頃に、ジプシー発祥の地とされるインドの北ラジャスタン地方から旅立ち、トルコ、エジプト、中東からバルカン半島を抜けて西へ西へと進み、ヨーロッパ、果ては北アフリカまで、何世紀にもわたり苦難の歴史を歩み続けた。言葉はあるが文字をもたなかった流浪の人々は、その旅の記憶、民族の歴史を歌や踊りに託すことで後世に伝承した。土地の文化と出会い、互いに影響を与え合い、また新たな音楽を生むという長い旅の記憶がジプシー音楽の多面性となっている。ジプシーの音楽は、バルトークやリストなどクラシックの作曲家に多大な影響を与え、また、スペイン南部ではフラメンコを生み出した。現在でも旅を続ける人々もいるが、多くはスペイン、フランス、東欧の村々などに定住している。


ファンファーレ・チォカリーアのマネージャー、ヘンリー・エルンストが語る
ジプシーブラスの歴史

畑から生まれたチォカリーア!
ブラスバンドの伝統は主に旧ユーゴスラビア、セルビアやマケドニア、あるいはブルガリアなど、バルカンの地域に広がっていて沢山のジプシーブラスバンドが存在する。かつてオスマン帝国がバルカン半島にブラス楽器を持ち込んだ。
ルーマニアは、チォカリーアの村があるモルドヴァ地方だけに限られていて、他の地域にはブラスバンドの伝統はない。ルーマニアで北東のモルドヴァ地方だけにブラスが根付いた理由は、オスマン・トルコと国境をなすモルヴァ地域に城壁を作りオスマンから守る為送り込まれたドイツ・オーストリア・ハンガリー系少数民族移民の住む大きな地区があり、ブラスバンドが盛んだったからだ。19世紀初期のドイツやオーストリアではブラスバンドがとても人気があり、移民たちがその伝統を持ち込んだ。ジプシーの音楽家たちはこれに注目し、ブラスをやると仕事になると思ったわけだ。
モルドヴァ地方はルーマニアの中でもとても貧しい地域だったので、農業をして生計を立てる必要があった。貧しくて食べる物もない。農業なしには暮らせないんだ。土地を耕した手は荒れてごつごつになった。だからジプシーはヴァイオリン、アコーディオン、ツィンバロン、コントラバスを弾くことが多いが、モルドヴァのジプシーたちは結婚式でヴァイオリンを演奏するなんて事は無理だった。指が荒れて繊細に動かせなかったんだ。それでも農業をやらなきゃ音楽だけで生活出来るわけではなかった。そこで、ごつごつした指でも、口とマウスピースさえあれば演奏出来るブラスを手にした。とても賢明な選択だった。
誰もがじきにうまく吹きこなせるようになった。ルーマニアのドイツ人たちはその音楽を快く受け入れた。ドイツ人は正確さ、勤勉さをもってどんどん高いレベルに達していたから、ル−マニア人たちはいつも真似ていた。ブラス音楽で踊ればルーマニア人も同じようにしたんだ。こうやってジプシーの音楽家たちがブラスを手にした時、モルドヴァのドイツ移民の地域でジプシーブラスが生まれ、浸透していったんだ。
僕がチォカリーアの村を訪ねた96年頃は、ブラス音楽はさびれていた。革命の後は、人々の生活が厳しくなって、結婚式や宗教儀式に音楽を頼む人がぐっと減って、ミュージシャンはほとんど仕事がなかった。チャウシェスク時代の方が人々はお金を持っていて、折につけジプシーに演奏を頼んでいたんだ。
老人たちは特に仕事がなかった。僕が行った頃は、楽器もほこりをかぶってるぐらいで、演奏するのは彼らにとって随分久々だったらしい。映画の冒頭の子供が楽器を発見し、演奏をし始めるというのは、リカヴァー(再生)するということ。「再び伝統が蘇っていく」ということを象徴している。それが監督の描きたかったことだと思う。